暇モアイのプロフィール

ブログをご覧いただきありがとうございます。

当ブログ「暇モアイ」は、2017年1月31日に開設し、現在月に約2万回読まれています。(2018年1月時点)

大学卒業後、関西の某大手百貨店に勤務後、フリーランス(個人事業主)として独立し、1年目でサラリーマン時代の月収を超え、現在3年目に突入しました。

現在は取引先様にも恵まれ楽しくお仕事をさせていただいてます。

僕の幼少期の生い立ち、フリーランスになるまでの経緯など書いていますので、よかったら読んでみてください。

 

簡単な経歴

2年半の会社勤務を経て、フリーランスへ、現在福岡でフリーランスとして働いています。

1991年、大分県大分市生まれ。

小学校までは大分育ち、中学からは佐賀の中高一貫校へ、大学で福岡の九州大学へ。

大学では、留学生のチューター、混声合唱団などの活動に積極的に取り組みました。

本当は大学出て就職せず、自分で生計を立てていきたかったのですが、多額の奨学金という借金を背負っていた上に、起業してうまくいく自信が全くなかったため、関西の某大手百貨店に就職しました。

現在はフリーランスとして、たくさんの企業様にお仕事をいただきながら日々奮闘中!

2019年は当ブログはもちろんのこと、Twitter、YouTube、Instagramなど自分のメディアにも力を注いでいく年にします!!

 

私にとって大切な価値観

一番大切なのは楽しく生きること

楽しく生きること。

これが意外と難しいんです。

楽しいことだけをしていたら生計が立たなかったり、逆に働きすぎて、楽しく生きるってなんなのかわからなくなってしまったり、、、

楽しいことの例をあげるとしたら、みんながよく行く海外旅行

私も海外旅行が大好きです。

よく聞くのは楽しかったという思い出話。

それはひとときのリフレッシュであってそれはそれでいいと思うのですが、

ただ私は高い金額を払って、海外に行って、興味関心に任せて浪費し、嫌々日常に戻るという行為自体がマスターベーションのような一時的な快楽であって永続的に続くものではないところが気に食わなかったのです。

どうせなら日常も楽しいものでありたいし、できるなら浪費という形でなく、お金の出費を投資という形にしたい。

海外で使うお金を現地にいる状況で稼ぎたい。日本でお金を貯めて海外で使うのではなく、外国で使うお金はその場で稼いで旅行したい。そう思うようになりました。

 

時間と場所に囚われず、いつでもどこでも働ける環境にしたい

みなさんはできるなら働きたくないですか?

私にとって働かないというのは楽しいことではなく、多分働いていた方が幸せです。(働くという言葉のニュアンスが微妙に異なるかもしれませんが)

でも、会社で働くというのは明らかに肌で合いませんでした

インターネットが普及した今のこのご時世、仕事のチョイスの仕方次第で会社に所属せず、日本にいなくとも生計を立てることのできる時代になりました。

私はそのメリットをフル活用したくて今の状況に身を置き、インターネットのリテラシーを必死に勉強している最中です。

ぼくの家族について

1991年ちょうど湾岸戦争が始まった年に、大分県で生まれました。

父、母、私の三人家族。

私は一人っ子なのです。

父は元大学の先生。

母は専業主婦。

母がずっと家にいたので幼少期は寂しさとかそういうものを感じずに育ちました。

今は両親が離婚しているので大分に実家はありません。

これまでの人生

誕生から小学校

大分県という山と海ある自然が豊かな(逆にそれしかない)土地で生まれ育ちました。

よく食べる子で身長が高く(小学6年で170cm)、結構やんちゃでクラスでもかなり目立つ方でした。

体が大きかったせいか、小学4年生ごろから反抗期が始まり、先生の言うことを聞かず、担任の先生には大変ご迷惑をおかけしたことを今では心から反省しております笑

小学4年生から、昔大分駅の中に入っていた全教研という進学塾に通い、その塾の先生たちが教えるのがとても上手だったおかげで、私のクラスはあまり勉強してないにもかかわらず、全員が佐賀の弘学館という私立の進学校に合格することができました。

 

全寮制で男子校の中学に入学

私が合格した弘学館という学校は元々男子校の学校で、私が入学するちょっと前に高校だけが共学になり、私が入学した時は中学校は男子校のままでした。

そして全国でも珍しい全寮制の学校で全員が寮に入って、私生活まで全て学校の管理下に置かれていました。

そのころついたあだ名が「モアイ」、そう今のブログ、「暇モアイ」の元です笑

その頃はあだ名で呼ばれるのが嫌で嫌で仕方がなく、スクールライフから私生活まで同級生と接しなければならない環境が地獄そのものでした。

しかし、体格が良かったこともあり、モアイと呼んだ奴をかたっぱしからぶっ飛ばしていました。(今は温厚ですよ)

成績は可もなく不可もなくと言うところでした。

 

バレーボールしかなかった学生時代

佐賀のど田舎で、毎日学校と寮の往復、クラスに女の子もいないとなると必然的にストレスの発散場所が部活しかなくなります。

私はスポーツが嫌いじゃなかったのですが、先生や先輩たちにアレやれコレやれ言われるのが嫌で、中学1年生の時は部活に入っていませんでした。

しかし、体格がよく、体育会部活の先輩たちからの勧誘が激しく、中学2年のときにしぶしぶバレー部に入部することになりました。

結局、ハマりにハマってしまい高校総体では、副キャプテン兼エースとして頑張りました。

 

女子が入ってきた!高校時代

高校1年生になり、女子が入学してからというもの、学年全体の雰囲気が一気に変わりました。

私も不可抗力で女子を意識するようになり、勉強ができたら色々質問されるかもしれないと思い、頑張って勉強して、一時期は学年でも一桁に入るような成績を叩き出していたのですが、高校2年に入ってからというもの好きな女の子ができてしまい勉強が手につかなくなりました。

すると成績は一気に急降下

成績が悪くなりすぎて当時の担任からも正座させられ叱られたのを覚えています。

 

高3の9月に体育祭の応援団を務め上げ、怒涛の受験勉強

私の高校では毎年体育祭の時期になると高校2、3年生の有志が応援団を結成し、団をまとめたり、演舞をしたりしていました。

中学1年生のときから本当に憧れていて、高校生になったら絶対やってやると決意していました。

高校3年のときに応援団の旗手(旗を振り回して演舞する係)に選出され、体育祭の2、3か月前ぐらいからずっと練習を積み重ね、本番当日は力強い演技ができました。

これが、後々大変なことになるとは夢にも思わなかったです笑(意味深)

そんな大舞台を終えると、一気に受験モードに切り替えました。

好きな子ができたり、応援団の練習がハードだったりとなかなか勉強できなかったため、成績はクソみたいなもんでしたが、なんとか怒涛の追い上げ。

センター試験は失敗したものの二次試験の方が配点が高く、そちらの方が自信があったため、志望校も変更することなく受験したところなんとか九州大学農学部に合格

一生懸命指導していただいた先生方本当にありがとうございました。

 

大学時代(九大農学部での4年間)

大学1、2年次はなにすればよいのかわからずとりあえず飲み会を開いては、ワイワイやっていました。

夏休みとか友人を家に呼びつけて週に4回とかのペースで飲み会を開いていたと思います。

大学2年の終わり頃にこのままじゃいけないといろいろと自分から行動に移すようになりました。

 

海外とのつながり

そんな中で転機になったのが海外とのつながりです。

大学2年生の春休みから長期休暇にはどこか1カ国行くようになりました。(就活時期を除く)

行った国々が韓国・シンガポール・タイ・オーストラリア・アメリカ。

そして社会人になってからトルコも行きました。

友人と行くのも楽しいのですが、一人で行った時の方が印象に残りますね。

オーストラリアには英語を勉強するために一人で行き、1ヶ月ほどホームステイしてきました。

短期のステイだったのですが、ホストファミリーにも、一緒に泊まっていたイギリスの男の子たちにもよくしていただき本当に素晴らしい思い出になっています。(写真はホストファミリーのローソン夫妻)

 

留学生のチューター

チューターとして九大の留学生のお世話係をやっていました。

お世話係とは名ばかりで、入国したての頃は確かに手続きとかが多かったですが、あとはパーティーをしたりだとか、旅行に行ったりだとかよく一緒に遊んでいました。

なぜかドイツ人と息が合いまして、プライベートでもしょっちゅう遊んでいました。

 

全国合唱コンクール

なんとなくで入った九大混声合唱団。

なんと大学2年の時全国合唱コンクールで金賞を受賞してしまいました←他人力

初めてソロをやらせていただいた曲でもあったのですごく印象に残りました。

写真は定期演奏会のものです。人数多いでしょう笑

 

就職活動中まさかの展開に

私は理系にいながら、研究とかそういう職よりもデスクワークばかりでない足を使う仕事がしたいと思っていました。

その時はまだ人と関わるのが好きで(今は嫌い笑)、接客などのお客さんと直に関わる仕事もいいなと漠然と思っていました。

そんな中、九大の就活セミナーで某百貨店の人事部長さんと仲良くなり、面接を勝ち抜いて内定をいただくことができました。

ただ、他にも20社ほど受けていて、その中に私服面接を採用している企業がありまして、「あなたらしい服装」で面接に来てくれということでした。

自分らしい服装なら高校時代の応援団格好で行こうと決めていた私でしたが、面接一週間前に企業から一通のメールが。

最終面接には「あなたらしい普段着」で来てくださいの文字が。ふ、普段着!?

急いで企業に電話し、確認。応援団の格好でいこうと思っていた旨を説明すると、快くOKしてくださいました。

いざ、面接会場に来てみる私の格好を見て他の人がザワつく。

そして、珍しい私服面接の取材にテレビと新聞社が来ていると聞いて顔が青ざめる。

最終面接では合唱団に入っていたことを言ったら、役員の前で歌わされるという始末。

就職活動で袴着てハチマキして旗持って歌った人他にいますか??

面接後は記者軍団が私に殺到して、ちょっとだけ芸能人気分。

インタビューで何を答えればいいのかわからなかったのでとりあえず、「パワフルさが発揮できてよかったです」と答えたら、その見た目とセリフと学歴で、後日2ちゃんねるで炎上。

そこも無事に内定はいただいたものの、当初希望していた海外営業部署には入れてもらえないとのことだったので、辞退させていただきました。

結局、日経新聞や中国新聞、あとテレビでも取り上げられたみたいです。(テレビもってないので見てませんが笑)

 

会社員時代(就職から退職まで)

2014年4月に関西の大手某百貨店に就職しました。

就職してからずっと食品を担当していて、

1年目は鮮魚・塩干の売り場を担当。

2年目は全国の銘店の佃煮や加工食品の売り場を担当。

3年目は物産展・イベントなどを担当する食品催事担当として勤務しました。

身につけた食品の知識等は今の仕事にいきています。

 

現在からこれから

2016年12月に勤めていた百貨店を退社。

現在フリーランスとしてライティングやSNS運営により生計を立てています。

現在(2019年4月)までの取引先様

株式会社ふくや、株式会社ぐるなび、株式会社リクルートホールディングス、株式会社西日本新聞メディアラボ、株式会社福岡放送、株式会社LAUGHTECH、株式会社パム ほか

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メールもお気軽にどうぞ(hitomatomari@gmail.com)。